今回は、歎異抄に魅せられた一人として、哲学者の三木清氏について紹介します。
三木清のプロフィール
日本の三大哲学者の1人と言われる三木清(1897~1945・明治30~昭和20)は、兵庫県に生まれ、第一高等学校在籍時に、西田幾多郎の『善の研究』に強い感銘を受け、京大で哲学を学ぶことを決意します。
京大哲学科を卒業後、ドイツ・フランスに留学し、ハイデガーから直接哲学を学び、書籍に以下のように記しています。
私は本の読み方をハイデッガー教授から学んだように思う。
(引用:『ハイデッゲル(ハイデッガー)教授の思い出』)
西欧から帰国後、「岩波講座哲学」、「岩波新書」などの立ち上げに尽力するなど文化人としても活躍しました。
非業の死
ところが、1945年6月12日、治安維持法の容疑者をかくまったという嫌疑により検挙・拘留されてしまいます。戦争終結後の1945年9月26日、豊多摩拘置所で疥癬(カイセン)の悪化により獄死。
享年48歳でした。この三木の非業の死をきっかけとしてGHQは治安維持法を撤廃したといわれています。
遺稿は『親鸞』でした。その三木清は『歎異抄』について「万巻の書の中から、たった一冊を選ぶとしたら、『歎異抄』をとる」といったと言われます。
三木清の親鸞聖人に対する思いは強く、いろいろな言葉を残しました。
歎異抄へ傾倒
『読書と人生』(新潮文庫)には『歎異抄』について次のように書いています。
元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する『正信偈』とか 『御文章』とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に 坐ってそれを誦することがあった。 お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。 こうした子供の時からの影響にも依るであろう、青年時代においても私の最も心を 惹かれたのは真宗である。 そしてこれは今も変わることがない。
いったい我が国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ 禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遥かに親しみが 感じられるのである。
いつかその哲学的意義を闡明してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願で ある。
後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む 機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは 結局浄土真宗であろうと思う。 高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。
三木清が、西洋哲学よりも、キリスト教よりも、禅宗よりも傾倒したのが 浄土真宗、親鸞聖人の教えであり、そのきっかけは『歎異抄』だったようです。
英文学者であり、文芸評論家の本多顕彰(ほんだあきら)氏の『歎異抄入門』には、以下のように書かれています。
三木清の奥さんが亡くなった日の夕方お悔やみに行くと、うす暗い仏間の仏壇の まえでお経をあげている坊さんの後ろに西田幾多郎博士と三木清が並んで端座 していた。
西田博士(西田幾多郎)は『善の研究』の中で歎異抄を感銘深く語っており、 博士の影響を受けた倉田百三が親鸞を題材にして『出家とその弟子』を書いている くらいだから、(西田幾多郎)博士が仏壇のまえにすわったにしてもふしぎはない かもしれないが、あの夕には、それすら私には奇異に感じられた。
三木清の心情にいたっては、私はまったく量りかねたのである。
三木清ともあろうものが仏壇のまえにすわって手を合わせるなんて、いったい どういう了見なのだろう、奥さんが死んでセンチメンタルになったのだろうか、 それともお芝居であろうか。
いや、それにしては、彼の表情は真剣すぎた。彼の表情は長いあいだ私にはナゾで あった。 それからずっと後に、彼は、何の前置きも、何の説明もなしに、 『ぼくは親鸞の信仰によって死ぬだろう』と言った。
私はほんとうにびっくりした。 合理主義の理論家三木が、私の抵抗しつづけてきた、あの地獄極楽の浄土真宗の 信仰によって死ぬなんて!
三木清や戸坂潤が獄死したことを配給所にあった古新聞によって知った。 私には、獄中で念仏をとなえながら息を引きとる三木清の姿は想像しにくかった。
しかし、三木清は、たしかに親鸞の信仰によって死んだ。 彼は未完ではあるが、彼らしい見事な『親鸞』を書きのこして逝ったのである。
戦争が始まったとき、ある雑誌が、 『あなたが出征するとして、ただ一冊の本を持って行くことを 許されたら何を持って行きますか。』 というアンケートをやった。 そのころは、『海行かば』の歌がおさめられている万葉集が大はやりであったから、 回答の大部分がそれであろうことは予想され、他の本を選ぶことは気のひけることで あったが、私は、かまわず『歎異抄』と書いた。 歎異抄にはひかれるところもあったし、それよりも、その本には深い意味がありそう なのに、まだそれを私はきわめていなかったからである。回答の十中八、九までは 万葉集であり、その中に私の『歎異抄』がしょんぼりしていた。
しかし、おしまいのほうに、 もう一つ『歎異抄』があり、その下に三木清の名があった。
三木清の遺稿となった『親鸞』には次のように書かれてあります。
『教行信証』は思索(しさく)と体験とが渾然(こんぜん)として一体をなした 稀有(けう)の書である。 それはその根柢に深く抒情(じょじょう)を湛(たた)えた芸術作品でさえある。
実に親鸞のどの著述に接しても我々を先ず打つものは その抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから 溢(あふ)れ出たものにほかならない。
しかしながら、親鸞の宗教をたんに「体験の宗教」と考えるのは誤りである。 宗教をたんに体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。 宗教はたんなる体験の問題ではなく、真理の問題である。
(引用:(三木清『親鸞』)
三木清は、教えの深さと体験の深さの両方に感動し、 体験至上主義(※)ではいけないと警告を発しています。 (※体験を強調するあまり、教えは不要だと排斥する人のこと)